”感動の涙”初体験のあの話

人の話を聴いて感動して泣いた初めての日を覚えています。

小学生の時です。

その日は、特別に、体育館に全員が集まって、外から来た男性講師の話を聴きました。

講師の人は、子どもを守ろうとする母親の想像を超えた愛の力についてをお話ししてくれました。

その話は、私の記憶では

「子どもが大きな石の下敷きになってしまった。助けようと何人もの大人の男の人が集まって力を合わせて動かそうとしても、石はビクともしない。これはダメだと諦めてしまったところ、見ていた母親が、一人で石に近づき、うーと声を挙げると、一人で石を動かしてしまった。」

というものだったと思います。

 

この話を聴いて、小学生だった私の頬を涙が流れ落ちました。

怒られたり、怪我したりして泣いたことはありましたが、この涙はそんなのと違う。

悲しい物語に触れて泣いた涙とも違う。

この涙は何?

感動しても涙は出るの?

そんな自分に驚いて、ひざを抱えながら困惑していました。

友達に泣いていることを気付かれてしまう、と顔を伏せていたら、周りからもすすり泣く声がしました。

元気のいいクラスの男の子が、腕で涙を拭きながら、人目も気にせず泣いていました。

その姿に安心しました。

良かった、私も泣き顔を見せてもいいかな。

体育館から教室に戻る時、誰も笑いでごまかしたり、からかったりせず、静かに教室に戻った光景を覚えています。

 

その一コマが忘れられません。

講師の男性は誰だったのか・・・・。

 

そして、ついに、何十年も経った今・・・

もしかしてこの方ではないか、という本に巡り合いました。

「これだ!」と、長年のモヤモヤが晴れたような気分です。

その方は故・東井義男(とうい・よしお)先生

明治5年生まれの教育者であり、私もこれまで度々、東井先生の言葉に触れてきました。

今回、手にとった本は「10代の君たちへ 自分を育てるのは自分」(到知出版社)

その中に、私が小学校で聴いた話と、そっくりな話がありました。

その部分は以下のとおりです。

長崎に、原子爆弾が落ちました時、当時、十歳であった萩野美智子ちゃんという女の子の作文をちょっと聞いてください。

 

 雲もなく、からりと晴れたその日であった。私たち兄弟は、家の二階で、ままごとをして遊んでいた。お母さんは畠へなすをもぎに行った。出かけに、十一時になったら、ひちりんに灯をおこしなさいよ、といいつけて行った。けれども、私たちは遊びが面白いので、時計が十一時になったのに、一人も腰を上げず、やっぱりままごとに夢中になっていた。

 その時、ピカリと稲妻が走った。あっというた時はもう家の下敷きになって、身動き一つできなかった。何とかして出ようとすればするほど苦しくなる。じっと外の様子をうかがうより仕方がなかった。二人の姉の姿が見えた。大喜びで「助けて、助けて」とわめいた。姉たちは、すぐ走り寄ってきて、私を助け出そうとした。しかし土壁の木舞いの組んだのが間をさえぎっていて、押しても引いてものけられなかった。

 大きい姉が、「我慢しろ。ねえ、もうじきお母ちゃんもお父ちゃんも帰ってくるけんね。姉ちゃんは誰か呼んでくるけんね」と励ましておいて、向こうへ走って行った。私は、縦横に組んだ木舞いの隙間から、わずかばかり見えてる外を、必死に見つめて、お母ちゃんがくるかお父ちゃんがくるかとまっていた。

 やがて、大きい姉ちゃんが、水兵さんを四・五人連れて走って来た。その人々の力で、私は助け出された。フラフラよろめき、防空壕のほうへ行こうとした。家の下から、助けてえ助けてえと叫ぶ声が洩れてきた。弟の声であった。大きい姉ちゃんが一番先に気付いて、沢山の瓦を取りのけて、弟を引き出した。

 その時、また向こうのほうで、小さな子の泣き声が洩れてきた。それは二つになる妹が、家の下敷きになっているのであった。急いで行ってみると、妹は大きな梁に足を挟まれて、泣き狂っている。四・五人の水兵さんが、みんな力を合わせて、それを取りのけようとしたが、梁は四本つづきの大きなもので、びくともしない。挟まれている足が痛いので妹が両手をばたつかせて泣きもがいている。

 水兵さんたちは、もうこれはダメだといい出した。よその人が水平さんたちの加勢を頼みに来たので、水兵さんたちは向こうへ走って行ってしまった。

 お母さんは、何をまごまごしてるんだろう、早く早く帰ってください。妹の足がちぎれてしまうのに。私はすっかり困ってしまい、ただ背伸びして、あたりを見回しているばっかりだった。

 その時、向こうから矢のように走ってくる人が目についた。頭の髪の毛が乱れている。女の人だ。裸らしい。むらさきの体。大きな声を掛けて、私たちに呼びかけた。ああ、それがお母さんでした。

「お母ちゃん」

 私たちも大声で叫んだ。あちらこちらで火の手があがり始めた。隣のおじさんがどこからか現れて、妹の足を挟んでいる梁を取りのけようと、うんうん力んでみたけど、梁はやっぱり動かない。おじさんはがっかりしたように大きい溜息をついて「あきらめんばしかたのなか」いかにも申し訳なさそうにいって、おじぎをして向こうへ行ってしまった。

 火がすぐ近くで燃えあがった。お母さんの顔が真青に変わった。お母さんは小さい妹を見下ろしている。妹の小さい目が下から見上げている。お母さんは、ずっと目を動かして、梁の重なり方をみまわした。

 やがて、わずかな隙間に身を入れ、一ヶ所を右肩にあて、下くちびるをうんとかみしめると、うううーと全身に力を込めた。バリバリと音がして、梁が浮きあがった。妹の足がはずれた。大きい姉さんが妹をすぐ引き出した。お母さんも飛びあがって来た。そして、妹を胸にかたく抱き締めた。

 しばらくしてから思い出したように私たちは、大声をあげて泣き始めた。お母さんはその声を聞くと、気がぬけたのか、そのままそこへ、へなへなと腰をおろしてしまった。お母さんは、なすをもいでいる時、爆弾にやられたのだ。上着ももんぺも焼き切れちぎれ飛び、ほとんど裸になっていた。髪の毛はパーマネントウエーブをかけすぎたように赤く縮れていた。体中の皮は大火傷で、じゅるじゅるになっていた。さっき梁を担いで押し上げた右肩のところだけ皮がペロリと剥げて、肉が現われ、赤い血がしきりににじみ出ていた。お母さんはぐったりとなって倒れた。お母さんは苦しみはじめ、悶え悶えてその晩死にました。

 

 これは、特別力持ちのお母さんだったでしょうか。四人も五人もの水兵さんが、力を合わせても、びくともしないものを動かす、力持ちのお母さんだったでしょうか。皆さんのお母さんも皆さんがこのようになったらこうせずにおれない。しかもこの力が出てくださるのがお母さんという方なんです。

自分を育てるのは自分

私が聴いた「お母さん」の話に出てくるお母さんとは、別の方かもしれません。

遠い記憶ですが、私が聴いたのは「大きな石の下敷き」だったと思うので、同じかどうかわかりません。

子どもだった私が「梁」を知らず、勝手に「石」に置き換えて想像して聴いていたのかも。

それか、講師の先生がわかりやすく「石」に変えてお話ししてくださたのかも。

講演された方が東井さんだったかは、これだけではわかりません。

それでも、人間は、時には、想像を超えた力を出すことができるんだということを思う時、私の小学生の頃の話に、この本との出会いによって、東井先生のお話しが加わりました。

この喜びを、書き留めたくて、長々と引用させていただきました。