土地に根付く

まていに

2011年3月12日に最大震度6強を観測した県北部地震から8年が過ぎようとしています。

被災地の栄村取材で出会った高齢の女性を、今でも事あるごとに思い出します。


その女性は80歳手前。「高齢の女性」と書くと、よそよそしいので、イメージしやすいように「おばあちゃん」と書かせていただきます。

おばあちゃんは、栄村で一人暮らしをしていました。

夫を早く亡くし、おばあちゃんは家計を支えるために、冬はスキー場、夏場は農作業で働き詰めでした。

子供が独立してからは、家の周りの畑に行っては野菜を収穫したり、ご近所さんと「お茶のみ」したりの、のどかな日々を過ごしていました。

小柄でやせていて、しわ深い手。

髪の毛をピン止めでちょっと止めて、女性らしいキュートなところがあって、素敵なおばあちゃんです。

県北部を襲った8年前の地震。

おばあちゃんの家も大きな被害を受けます。

地震で長年住んだ家は危険度判定で危険と判定され、立ち入ることができなくなりました。

おばあちゃんはというと、ご近所さんが「ばあちゃん、大丈夫かい!」と暗闇をかけつけてくれて、おんぶして家の外へ避難させてくれたそうで、ご無事でした。

おばあちゃんは、村役場のロビーに避難し、そこで避難生活を始めました。

冷たい床。枕元を人が歩き、その度に自動ドアが開いて、寒風が吹き込む場所です。

長野市に住む息子さんが高齢の母親を心配して、しばらく一緒に暮らそうと、迎えにきてくれました。

栄村から見るとちょっと都会、長野市での初めての生活です。

息子さんのご家族は、優しい家族で、好きなものを作って食卓に並べてくれ、買い物にも連れていってくれたそうです。

温かいお風呂にも入れるようになり、遠くから心配していた息子さんは胸をなでおろしたことでしょう。

「それはそれは、良くしてくれてね。」と、おばあちゃん。

そんな、長野市での日々が1週間ほど過ぎたころです。朝食のテーブルをみんなで囲んでいた時のことです。

自分でも、なぜそうなったかわからないそうですが、頬を涙がツーっと流れてきました。

「栄村に帰りたい

押し殺していた思いが、涙となってあふれてきたのです。

おばあちゃんは、「こんなに良くしてもらっているのに泣いてしまった」と、自分を責めていました。

その様子を見た息子さんは、おばあちゃんが村にどんなに帰りたかったかを知り、その日にうちに、村役場の避難所に送り届けることにしました。

村役場の冷たい床の上に布団を敷いての避難生活に戻すわけです。

優しい息子さんですから、年老いた母親と別れる時、泣けたことでしう。

おばあちゃんは、顔なじみに会って笑顔が戻りました。

しばらくして仮設住宅が完成し、そこに移り、おばあちゃんの家は、解体されました。

村で復興支援住宅が完成し、お変わりなければ、おばあちゃんは現在そこで暮らしています。

私は、おばあちゃんの話を、よく思い出します。

不便でも、長年住んだ栄村の暮らしに戻っていったおばあちゃん。

おばあちゃんの尊厳を大切にした息子さん。

人は、土地に根付いて生きている。

特に、福島の原発事故で、住む場所を奪われた人のニュースを見聞きする度に、おばあちゃんの話を思い出し、長年住んでいた場所に戻れない、ということが、いかに残酷なことかと考えます。

公務員を目指す学生に、このことを話したことがあります。

住民に寄り添える行政職員になってほしいと願っています。

本当の思いやり、優しさとは・・・。

常に自分に問い続ける人間でありたい、学生にも問い続ける人間であってほしい、と願っています。