「外郎売り」・・・
私は「意味を考えずに声を出して読む」ということを、授業で実践しています。
言葉に体当たりする体験を通して、身体を解放していってほしいという願いがあります。(以前のブログでも書きました。https://matei-life.com/uirouuri/)
ここに、自己肯定感を育む種があると思うからです。
こうしたことを、別の角度から肯定する考えを、きょう、本で見つけました。
それは、小林秀雄氏と岡潔氏が対談形式で書かれた「人間の建設」(新潮文庫)です。
意味を考えずに声を出して読むことを「素読(そどく)」と言うんですね。
素読教育の必要
(小林) 話が違いますが、岡さん、どこかで、あなたは寺子屋式の素読をやれとおっしゃっていましたね。一見、極端なばかばかしいようなことですが、やはりたいへん本当な思想があるのを感じました。
人間の建設 より
岡氏は、記憶力がはたらいている時期にこそ、字を覚えさせたり、文章を読ませたり、多いにするといいと答えています。
二人の会話のキャッチボールで、小林氏は次のように述べています。
(小林) 一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。
人間の建設 より
「外郎売り」は、一音一拍で読んでいくと、日本語の持つリズムが大変心地いいのです。
この心地よさから、20回も声を出して読むと覚えてしまいます。
素読は「暗記強制教育」という考えから、今はやっていないそうですが、昔は寺子屋で論語を素読していたそうです。
(小林)国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。(中略)愛情には理性が持てるが、理性には愛情は行使できない。
人間の建設 より
授業に取り入れた「外郎売り」の「素読」
「素読」であるからこそ、卒業して私の手を離れた個々人が、この先、それぞれの愛情を持って、多種多様な花を開かせてくれればいいなあと願っています。