ゼムクリップの手品と世間

まていに

担当させていただいているビジネス実務演習の授業で、事務用品の名称を覚えるということがあります。

「ゼムクリップ」

これも実物を示して、覚えました。

これを手にして、まじまじと見ると、思い出す・・・小学生の時の出来事。

少しだけ苦々しい記憶・・・

  

小学4年生頃だったと思います。

ゼムクリップを使った手品を本で見つけた私は、クラスのみんなを驚かそうと思い立ちました。

ゼムクリップと、そこに通したハンカチの両端を持って引っ張ると、クリップからハンカチが抜ける、という手品です。

どうやるのか忘れてしまいましたが、あの形状を利用したものでした。

 

みんな驚くだろうな。

練習して、ワクワクしながら、いざ、クラスの前で発表!

「お楽しみ会」のような時間があったのだと、うっすら記憶しています。

ジャーン! 成功!

クラスは驚きの表情と声に包まれました。

が・・・・

前に座っていた女の子が声を挙げました。

「あっ!わかったー!」と。

分かるようは仕掛けではない。

席に戻ってから、どうわかったのかと尋ねると、

「あのさぁ、こことここをさぁ こうやってさぁ・・・・」

トンチンカンな答え。

その子は、全然分かってなかった

 

そこまでのことであれば、こんなに今も覚えていることではないのですが・・・

その時間が終わって、休み時間

別の友達が一言。

「手品、失敗だったね。バレちゃったもんね。」と。

 

成功したものが、失敗と認識されていた。

あんなに家で練習して、成功したのに・・・

「あー、わかった!」の一言で、成功が失敗に姿を変えてしまった。

「成功」が「失敗」にいとも簡単に姿を変える初めての体験でした。

 

あの体験はいったい何を意味していたのか。

ゼムクリップを見る度に思い出すほどの感情は、何を感じた感情なのか。

 

「世間」の理不尽さを感じたからではないか。

評価を下すのは「世間」。

「世間」の評価は、雰囲気や空気で決まる。

をれを思い知った出来事。

  

「世間」論と言えば、中世ヨーロッパの研究をされてきた、一橋大学学長も務められた故・阿部謹也先生。

日本特有の「世間」について、著書が多数あります。

ということで、阿部先生の「日本人はいかに生きるべきか」を読みました。

先日の私のブログ「成績評価に苦しむ」でも少し「世間」の面白い定義について書きましたが

阿部先生の定義は以下のとおりです。

世間とは、私たちが知っている限りで、周囲の人々の反応を気にしながら自分の行動を決めていく世界のことです。

そうだなあ、日本人に「あがり症」が多いのも、世間があるからだし、「世間」で生きているんだなあ。

家族という「世間」

学校という「世間」

会社という「世間」

 

ゼムクリップの手品は、クラスという「世間」の評価に、初めて身をさらして感じた痛みがあったから覚えているのではないかしら。

 

本題はここで終わりますが、私の備忘録として、阿部先生がこれから社会にでる学生へのアドバイスがおもしろかったので書き留めておきます。

ちなみに「社会人」という言葉も、日本特有だと書いていらっしゃいます。

同意するか否かは別問題として、「世間」から考えるとこういう見方もあるな、ということで・・・。

卒業する学生にはこう言います。ある会社に入る。問題は自分がその会社のどこにいるかということを見なければいけない。つまり、会社にはいくつも世間がある。その世間のどこに自分が位置しているか。それが見分けられないうちに何らかの行動を起こしてはいけない。まず黙って観察せよ。二年ぐらい観察し、そのうち何等かの役割がまわってきて発言を求められたときに、さあ、そこから先は自分の判断でやりなさい。何が正しいかということはそこで自分が考えるべきことだ。(P53)