不条理な出来事を言葉に

柳田邦男氏の「言葉が立ち上がる時」(平凡社)を読みました。

その中で、福島在住の小林麻里さんの「福島、飯舘 それでも世界は美しい  原発避難の悲しみを生きて」(明石書房)が紹介されていました。

柳田氏によると・・・

小林麻里さんは、結婚後、夫婦二人で福島県飯舘村で自然卵養鶏を営んで、野菜や米をつくって暮らしていました。

ところが、結婚してから2年半ほどたって夫を病気で亡くしてしまいます。

さらに、夫の死から3年、今度は東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故、全村避難を余儀なくされました。

小林麻里さんは、フランクルをの「夜と霧」と「それでも人生にイエスと言う」に強く励まされて、言葉を書くことに無我夢中で没頭していったそうです。

そのフランクルの一節です。

私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。

それでも人生にイエスと言う フランクル著

フランクルの「生きる意味を問うてはならない」「私たちは問われている存在」という言葉は、腑に落ちるものがありました。

われわれは人生から「問われた存在」

世の中には不条理なことがいっぱいあります。そんな時、フランクルのこうした言葉はだけは、つじつまが合うような気がしました。

過酷な運命の小林さんは、フランクルに強く励まされて、柳田邦男氏あてに書いた手紙に、次のような言葉を書いています。

今回、彼の魂が宿る場所が放射能で汚染され、出ていかざるを得なくなった時、最初は運命を呪い絶望したのですが、あるとき、「あーあ、私の魂はこういう経験がしたかったんだ」と気が付きました。

小林麻里さんの手紙より

柳田邦男氏は、この小林麻里さんの言葉について、以下のように述べています。

何と凄い人か、「私の魂はこういう経験がしたかったんだ」と言い切れるとは。

言葉が立ち上がる時 柳田邦男著

 

また、別の話にはなりますが・・・

2度もの千日回峰行の満行を達成した、 天台宗の酒井雄哉大阿闍梨は、無実の罪で起訴され、その後無罪が確定した村木厚子さんへ、その不条理な出来事に対して、「人生の論文を書かされた」という言葉を贈っています。

 

今、公務員試験や就活で、上田情報ビジネス専門学校(ウエジョビ)の学生たちは頑張っています。

どんな結果になろうとも、「人生の論文を書いている」「人生から問われた存在である自分」への与えられた試練・課題・喜びとして、受け止めて歩んでいってほしいと願います。