日本人の成人では、100人に1人が吃音を持っているとされています。
私の実感では、もっと多いような気がします。
吃音に悩む学生も複数人いますし、あがり症克服協会にも、吃音の悩みを抱えた受講生がいらっしゃいます。
多くの学生の中には、吃音を知られたくないと、隠している学生もいるでしょう。
今月(5月)11日の信濃毎日新聞朝刊に、東御市民病院の言語聴覚士の餅田亜希子さんの記事が掲載されていました。
『将来、吃音が特別視されなくなることを望む。』
と、餅田さんは、吃音について理解している人が増えて、吃音が受け入れられる社会を望む、とおっしゃっていました。
ドミニク・チェンさんは、著書「未来をつくる言葉」(新潮社)の中で、「吃音は身体のバグ」と表現していました。
10代初めの頃には、自分の吃音に気づき、それ以来、悩んできたそうです。
(ドミニク・チェンさんは、早稲田大学文化構想学部准教授で、テクノロジーと人間の関係性を研究しています。)
実に美しい文章で書かれていて、もう10回以上は繰り返し読みました。
美しい文章は、「読むこと自体」に喜びがあるものです。
文体に意味があるものを、その内容を要約して紹介するのは、ナンセンスです。
ですが、是非、手にとって読んでいただきたいとの思いで、その内容を少し、ご紹介します。
ドミニク・チェンさんは、吃音が出現する予兆がある言葉が頭に浮かぶと、違う言葉が頭の中で検索されて、準備され、発話されると述べています。
そのようにすることで、自分のコミュニケーションはつくりあげられてきたと。
吃音という、制御不可能な「他者」との対話の結果、選ばれた言葉が発話されるのだとすれば、それを積極的に受け入れた方が良いのではないか、というマインドセットがいつからか生まれたように思う。
(中略)
吃音がなくなれば良いと思わない日はない。その一方で、もしも症状がなくなってしまったらと想像すると、「最も身近な他者」がいなくなる寂しさをも感じるから不思議だ。時には邪魔で、摩擦を生じさせもするが、自分の意識だけではアクセスできない場所に連れて行ってもらえる。私にとっての吃音とは、いつのまにかそのような、共に生きる存在になっているようだ。
未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために
吃音に悩む学生に、ドミニク・チェンさんの文章のコピーを渡しました。
「美しい文章だから、読んでみて」とだけ言って。
すると、その学生の学習シートにこんなコメントが書かれていました。
『「バグ」をどう捉えるかを学べました。ありがとうございました。』と。
私は、そのコメントに胸をなでおろしました。
どう、受け止められるか不安だったからです。
学生が、私にこのコメントを書いてくれた配慮にも感激しました。
そして、次の自己表現の授業のことです。
事前に準備した自己紹介の文章を、クラスの前で発表する機会がありました。
しっかりと視線を仲間に向けて、堂々と発表する姿がありました。
その日の学習シートに「どもりが全く出なかったことに、おどろきました。」と書かれていました。
吃音は、人により様々で、悩みも様々です。
私のアナウンサー時代の先輩は、幼少期に音が連発する吃音だったそうです。
昔話をおばあちゃんと一緒に繰り返し読んでいたら、少しずつ吃音が出なくなったそうです。
大人になっても、吃音だった影響なのか、「あー」「えー」を頭につけるクセがありました。
それも、私がアナウンサーとして意識して耳をそばだてるからわかるのであって、普段のしゃべりではわかりませんでした。
幼少期の周囲の対応が、吃音を悪化させるかどうかにかかっていると、言語聴覚士の餅田さんは述べています。
吃音の人たちにとって自然な話し方である連発を、話しづらい難発へと悪化させるのは周囲の吃音に対する認識や対応だと考える。
2021.5.11 信濃毎日新聞朝刊「ひと とき」 東御市民病院の言語聴覚士 餅田亜希子さんの記事より
吃音は、「なくなれば良いと思わない日はない」というドミニク・チェンさんの言うとおり、時には自死に至るほどの悩みです。
しかし、社会は、吃音は個性であると、とらえるべきです。
決して、馬鹿にすることがあってはいけません。