自己表現の授業とは

伝える

上田情報ビジネス専門学校(ウエジョビ)で「自己表現」の授業が始まって4年目。

授業内容も、自由に私がつくりあげることを許していただいています。

そろそろ「自己表現」の授業とは何か、明確に説明できるようにする時期にきたと考えるようになりました。

何て言葉にしようかなあ・・・

 

元アナウンサーが行う授業だから、発音や発声や、間の取り方などテクニック的な部分を教えているの?

就職に向けての面接対策?

いや、それも授業の一部分ではあるけれども、本質的なことはそれとは違う。

 

ウエジョビは、「あなたがいてくれて本当に良かった」と言ってもらえる幸せな人生を歩んで欲しい、という教育方針の専門学校です。

資格をたくさん取ることや、就職することだけではありません。

最近読んだ著書「DX進化論 つながりがリブートされた世界の先」尾原和啓×宮田裕章×山口周

その中で、宮田裕章氏がこんなことを述べてていました。

・・・価値観の境界線や同調圧力の先にある、新たな価値が生まれるのです。

教育分野においても、詰め込み型の知識教育から、「生きることをいかに支えるか」という視点にシフトしつつあります。それはまさに、個人、家庭、社会の期待が変わり、ひとりひとりの生き方に寄り添う方向へと議論が変化しているためです。

P209~210

ウエジョビは、先んじて、それを実践してきた学校です。

  

「表現したい自分」になること

3年半の授業を通して、「自己表現」の授業を一言で説明すると、「表現したい自分」になるための場なんじゃないかと思うのです。

ちょっと、偉そうで申し訳ないです。

授業を通した学生とのやり取りから、「表現したい自分」になる場づくりこそが、私の役割だと気づかせてもらいました。

  

「大きな声で話せ!」「笑顔で話せ!」「姿勢よく!」「人の目を見なさい!」「さっきの話聴いてたでしょ!」

分かるけど、それができない。

どれだけ、小中高時代に注意されてきたか。

その悩みに触れる度に、幸せになるために今、何を、仲間とともに学ぶべきか。

社会に出る前の、貴重な時間・・・

幸せになるためにその時間を使おう、そう思うのです。

 

「自分のことを話すのが嫌い」と言う学生もいます。

「時々、先生の言うことが聴きとれないんです」と、APD(聴覚情報処理障害)を疑うような学生もいます。

大きな音などの刺激に過敏なHPS(ハイリー・センシティブ・パーソン)の学生もいます。

「吃音」の学生もいます。

ウエジョビに、そういう学生が集まっているのではなく、社会一般の平均的割合なんです。

つまり、実社会には、そういう悩みにどう付き合うかを試験的に自己表現する場もないまま、社会人となっている大人が、こうした割合でいるのです。

悩みの筆頭は「あがり症」

学生時代はごまかせても、朝礼が苦痛で休んでしまうケースも。

 

話すことが苦手で、辛い思いをしている人は多いと思います。

練習が必要なのに。

自己表現の授業は、恥をかいていい場所。

仲間との約束は、決して馬鹿にしてはいけない。

学生との約束は、他人と比べないこと、などなど多々あります。

  

学生たちの学習シートは、一歩一歩の歩みが記されていて、胸を打たれます。

「大きな声が出るようになったねと先生に言ってもらって嬉しかった」

「笑顔ができるようになったと先生に言ってもらえて嬉しかった」

「先生の目を見て学習シートを受け取れた」

「息を長く吐けるようになった」

「今日は姿勢を良くする時間が伸びた」

「頑張れ私!」

 

頑張る仲間をバカにしない空気は、学校全体にあります。

「表現したい自分」になる場づくりが私の役割、などと偉そうに書いてみましたが、学校全体がその空気を作り上げてくれているおかげで、授業が成立しています。

それは、先生方だけではなく、学生も一緒に作り上げている空気です。(県外からも来てくれています)

なので、例え同じ授業内容を他でやったとしても、醸成された空気がないので同じようにはできないと思います。

私の役目は場づくりの下働きに過ぎません。

 

「自己表現」の授業とは・・・の問いに対しては、今日はこんなこと書きましたが、上書きされていくと思います。

学生と接する度に、そして、私自身が勉強していく中で、そういうことだったのか、と本人の心情にやっと気づくことが多々あります。

なので、後日このブログを読んで、絶対に今日の自分自身を恥じ入るだろうなと思いながらも、言葉にしてみました。

まだまだ、発展途上の私、そして「自己表現」の授業です。