お彼岸には少し早いのですが、大桑村へ母と墓参りに行ってきました。
墓地で、手押し車を押した見知らぬ高齢の女性が、私たちに声を掛けてくれました。
その方は墓参りを終えて帰るところだったようです。
「うちの墓は、苔がたくさん生えちゃって困ります」とおっしゃっていました。
私は、それまで苔は気にせず、草だけ抜き取っていました。
ところが、その女性とお話ししたら、急に、「今のうちに苔を取り除かないと、苔が増えちゃうんだ」と思い、私は、苔をはぎ取り始めました。
苔は、趣のある素敵なものです。墓のある定勝寺の庭も、苔が生えていて静かな風情があります。

同じ苔でもこちらの都合で、悪者にしてみたり、素敵だと言ってみたり。
自分でも勝手だなと思いながら、苔をとっていました。
塩尻市の尼寺のご住職、青山俊董さんの著書にあった「自我がのさばっている」という随筆を思い出しました。
わたしの好きな詩に「運動場」という、小学校四年生の子どもの詩がある。
「せまいな せまいな」
といって みんなで遊んでいる。
朝会のとき 石をひろわされると
「ひろいな ひろいな」と
ひろっている。
人間は身勝手なものである。(中略)
この詩のすばらしさは、そういう身勝手な自分の姿に気づいているというところにある。
(中略)
道元禅師は、この気ままなエゴのわたしを自我とか吾我と呼び、これを見守るもうひとりのわたしを自己と呼ばれた。この自己が仏の命とぶっつづきのわたしであり、仏の目でもあるのである。
あなたなら、やれる 青山俊董
まったく、その通りだと、心の中で笑ってしまいました。
スギ花粉対策で、マスクに帽子で外出の日々。
杉の木は、木材として成長が速いことから、珍重されてきたのに、悪者扱いする私がいます。
家人の帰りを「遅いな」と待つ日もあれば、「もう帰ってきちゃった」という日もあれば・・・
「自我がのさばっている」、まさにその通りです(笑)