芥川賞作家の平野啓一郎さんがつくった言葉「分人 dividual」
これ以上分けられないという「個人 individual」に対してつくられた言葉です。
人間は、出会う人との相互作用によって自分が発現している。
全てが「私」であるというのです。
(『私とは何か「個人」から「分人」へ』 講談社現代新書)
平野啓一郎さんの「分人」は、「自分を好きになれない」という若者にとって心強い言葉です。
家族に対する「私」 学校の友達に対する「私」・・・
年齢を重ねると職場に対する「私」、地域に対する「私」など、様々な私が生まれてくる。
イメージでいうと、分数の分母が様々な分人の「私」。
そこには、「嫌いな私」も「好きな私も」
分母の分人は、出会いによって増えていく。
だから「嫌いな私」は、薄まっていく。
人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか?逆に、別の誰それといる時の自分は嫌いだとも。そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。
それは、生きた人間でなくてもかまわない。私はボードレールの詩を読んだり、森鴎外の小説を読んだりしている時の自分は嫌いじゃなかった。人生について、深く考えられたし、美しい言葉に導かれて、自分がよりよい広い世界と繋がっているように感じられた。そこが、自分を肯定するたための入口だった。
分人は、他者との相互作用で生じる。(中略)誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという。その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。
『私とは何か「個人」から「分人」へ』 平野啓一郎著 講談社現代新書
自分を好きになれなくて、自分のことを言うのも、質問されるのも「イヤ!」
ものすごい拒絶感がある場合があります。
上田情報ビジネス専門学校(ウエジョビ)の学生たちには、学校生活を通して、沢山の「表現したい自分」に出会ってほしい。
それを自己表現の授業で、表現することが楽しいと感じてくれたらと願っています。
先日、学校の帰り、上田駅のすぐ近くに今月6日にオープンした「天神ブルワリー」さんに立ち寄りました。
電車に乗るまでの、ほんの10分ほどでしたが上田の地ビールを味わうことができました。
一人でビールを飲む「私」は、いろんな「分人」の中でも、かなり突飛な「分人」です。
私の親が知ったら、「女性が一人で酒場とは、はしたない!」と言うだろうなあ。
(うちの親の価値観であって、もちろん、女性が一人で行くのは悪いことじゃないです。)
だからこそ、ワクワクもする。
思春期の子どもは、友達との出会いによって新しい「分人」ができているのに、家庭では、家族に対する「分人」への引き戻しの圧がすごい。
反抗期の子どもの心情を「分人」ベースに、ちょっとだけ思い量りながらビールを飲みました。
次はもっとゆっくりと、お店の方からクラフトビールのお話しをお聴きしたいと思いました。