一昨日の上田情報ビジネス専門学校(ウエジョビ)での特別講演会。
このことについては、6日のブログでも触れています。
喜多川泰先生の講演での質問タイム。
一人の男子学生からこんな質問がありました。
「私は山登りが好きで、一人、山で夜を過ごすこともあります。一人なので何かあっても誰も助けてくれない、死を感じて怖くなることがあります。どのように気持ちを持っていけばいいのでしょうか?」
(私の記憶から書き起こしているので、ニュアンスの違いがあるかもしれません)
喜多川先生のお答えです。
(こちらも同様に正確な書き起こしではありまん)
「都市は空想を形にしようと人間がつくりあげたもの。あらゆるものに所有のラベリングがされている。だから、そこで怪我をしたら所有者の責任が問われる。一方、自然はみんなのもの。自分のものなんてない。そこで怪我をしても自己責任。素晴らしい経験をしているね。人間は1日2時間は自然の中に身を置くのがいいと思う。」
なんと素敵な答えなんだろうって、感動しました。
「都市」について、私自身、最近、興味深い考えに触れる機会がありました。
山口周氏が対談で述べていたことです。
「都市のデータ量は非常に少ない。例えば、ビルの壁は面であり、データ量も少ない。一方、自然はデータ量が非常に多い。木々の一枚の葉だけでも一色ではない。多様な色から成る葉が無数にあるのが自然だ。自然は非常にデータ量が多い。」
といった内容でした。
そういえば、私が報道記者時代に、映像を伝送する時、海や雪はデータ量が多すぎて苦労しました。
雪一粒一粒、全てがデータです。
海の水平線まで続く波ひとつひとつが、全てデータです。
それを数値的に実感したことがありました。
自然の中にいると、都市は人間がつくった虚構の世界だということに気づくものです。
かくばかり風はふけども板の間もあはぬは月の影さえぞ洩る
(この荒れた家は風がひどく吹きこむけれども、屋根板のすきまから月の光が洩れてくる)
和泉式部
ジョアン・ハリファックスの「コンパッション」を読んでいて、この日本の短歌が紹介されていて驚きましした。
コンパッションとは、『人が生まれつき持つ「自分や相手を深く理解し、役に立ちたい」という純粋な思い。自分自身や相手と「共にいる」力のこと。』と、著書の帯に書かれていました。
私たちの人生に生命を迎え入れ、他者を迎え入れ、世界を、そして闇夜をも迎え入れるべきなのでしょう。知識や恐れの屋根で覆って、月光を遮らないように。利他性は、まさにこの月の光を通すことであり、この隔たりのない荒れ地であり、この壊れた屋根なのです。(中略)
利他性の良き友であるコンパッションと智慧と愛をもって、人間の心深くにある善なるものの導きに、自ら応えられる強さを培うのです。古屋の屋根のすきまから差し込む月の光にみちびかれるように。
コンパッションP108~109
建築家、隈研吾氏が「点・線・面」の中で、近代建築の巨匠、ル・コルビュジエの鉄筋コンクリートの面の構造によって造られた建物は、自然との分断だ、と述べていたことと繋がりました。
山で夜を一人で過ごす山登りが好きなウエジョビのその学生は、素晴らしい感覚を身体で感じて養っているのですね。
ぬすびとに とりのこされし 窓の月
良寛
寝ているところに忍び込んだ泥棒に、寝たふりをして布団から転がり出て、足でけって泥棒に盗ませてあげた良寛さん。
その時に読んだ句です。
窓から見えるきれいな月は、泥棒も盗めないで帰ったと。
「コンパッション」とは、禅語でいう「打成一片」
ここでも繋がりました。
打成一片とは、自分をかわいがるエゴの自己を打って捨てて、相手と完全にひとつになることだそうです。(境野勝悟氏)
学生の質問から、思いをめぐらしました。
多くの尊敬する人たちの言葉が、繋がってくるのが楽しく思いました。
実家の古い家のすきま風も、「寒い寒い」と不平不満ばかり言わずに一句したためられる人間にならなければいけないですね。
なかなか、そうはいかないものです。