「自分の声」って、どれだろう?
悩み続けてきました。
最近、いろんな声があっていいんじゃない?、いや、むしろ多様な声が出せる方が大切ではないか、と思うようになりました。
今の子どもたちの話を聴いていて、いちばん感じるのは、語彙の貧困というようりも「ヴォイス」の貧困ということなんです。一つしかないんです、語り口が。親に向かってしゃべる言葉と友達に向かってしゃべる言葉と先生に向かってしゃべる言葉との間に区別がない。
(中略)
同じコンテンツを違うモードで伝えるというのはコミュニケーション技術の中ではすごく大事なことなんです。それができないと、ほんとうに自分の言いたいことも伝えられないし、相手のシグナルの機微も感知できない、コミュニケーション感度の低い人になってしまう。
(中略)
ヴォイスが一つしかない人はチューニングができない。二つヴォイスがある人は、二つの周波数帯で交信できる。同じコンテンツを、同じ文法で語るんですけども、ヴォイスが複数あれば、それぞれのヴォイスで微妙に違うことを語ることができる
「身体の言い分」(内田樹×池上六朗)
どんな場面でも、同じ声を出すことが「自分らしさ」という考えが主流派で、私は悩んできたのです。
様々な声を、場面場面で出すことは自己が貫徹できない人間なのかと。
でも、内田樹氏のずばっと言い切ることに、思い当たるところもあり、安心しました。
確かに、学生世代は、小さな世間(家族や友人)でしか声を出していない。
これから社会に出ていく時に、どんな声を出していいかわからず、身体がコチコチに緊張してしまう。
今、「あいさつ」を大切にする上田情報ビジネス専門学校では、様々な場面で声のチューニングができ、相手の機微を感じ取れる人を育てているのだと思います。
それに伴って「自己」についての考え方も、「そうかもな・・・」と考えるようになりました。
例えば、楽器を演奏することを考えてみると・・・
ある時はヴァイオリン、ある時はクラリネット、ある時はお琴
演奏するのは「自己」
それを演奏する時の身体は、その都度違う反応をしています。
自己矛盾があっても、楽器が違うのだから当然。
一つの声しか持たないと、自己矛盾が生じた時に、弱い人間になってしまう。
「声のチューニング」という言葉、なんだか楽しし、奥深い。
とにかく、声と身体は切り離せないものなので、追及することに大きな意味はあるのだと思います。